教育改革での授業改善への視座-「学達」(学びて達す)-

 学校教育の中核を占めるのが授業であることは当然です。もっとも学校で時間を過ごす場所は教室であり、その教室での時間の中心が授業です。現在の学校教育が始まったのは、明治の学制の施行(1872年)からです。幕末、明治維新を経て近代国家を建設するためには、国民の教育が必要とされました。江戸時代での農業を主とした社会(ソサエティ2.0)から、産業革命による工業化社会(ソサエティ3.0)に移行するためには、その社会に適応する人材が必要であり、その人材の育成を目的とした教育機関が求められ、学制により学校教育が始まり、21世紀の現代に至っています。

 

 現在の社会は、工業化社会(ソサイエティ3.0)の要素を保ちながら情報社会(ソサイエティ4.0)となっています。インターネットの普及により、情報量の劇的な増加に加え、個人が情報へのアクセスが容易となるだけでく、自ら情報が発信することも容易となっています。それにより、かつてよりも瞬時かつ大規模で「個人対個人」あるいは「個人対多数」という、ソーシャルネット(人との結びつき)が築かれ、それが日常生活において重要な部分を占めるようになっています。さらに、これからの社会はいっそう進化し、AI(人工知能)/IoT(モノのインターネット化)が牽引する社会(ソサイエティ5.0)になっていくと予想されています。

 

 このような背景から、新しい社会や時代に対応するべく学校教育の改革が叫ばれています。文部科学省が推進している大学入試改革を含む教育改革は、その一例です。新入試制度において求められるものに、「学力の3要素」があります。「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「学びにむかう態度など」の3要素です。2020年度から始まる大学入試において、特に「思考力・判断力・表現力」を問う問題が

が出題されれことになっています。その一環として、新学習指導要領改訂においても。「学力の3要素」を鑑みる授業を行い、生徒の学びが「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)になるように求めらます。

 

 すでにそのような授業を行っているのなら、何の問題もないでしょう。実際、東京大学や京都大学を始めとする超難関大学に多数の合格者を出している高校では、今更このようなことを言う必要はなく、長年に渡り行われてきた授業の蓄積や実績があります。しかし、そのような高校ではない場合、具体的にどのように実現するかが問題になります。「学力の3要素」の「知識・技能」や「思考力・判断力・表現力」といっても様々なレベルがあります。高校間のレベルの違いと同様に、小・中・高といった教育段階でのレベルの違いもあります。そのような状況の中で懸念されるのが、ただ形式的に実施するだけで終わってしまうことです。

 

 形式的のみに基づいて実施される場合、今まで変わらない学びになってしまう惧れがあります。その原因は、教えるという側面だけを重んじて、学びの側面が軽視されることです。確かに、教えるという側面は、必要不可欠です。しかし、その側面だけを意識し、生徒の学びの意識を怠れば、思うほどの成果を得ることは難しくなります。故に、今回の教育改革では、学びの側面、それも「学びを通して成長する」視座を持つことも必要不可欠になります

 

 現代においても学校教育の中心は教室での「授業」です。教育改革において「授業改善」が要求される際、それへの「視座」が重要になります。それは「生徒が学びを通して成長する」という視座です。これを私は「達学」(学びて達す)という言葉で表しています。これは、論語での孔子の言葉である「下学上達」からヒントを得ました。「かかぐじょうたつ」と読み、その意味は「身近のところから学んで、次第に深い学問に進んでいくこと」です(『三省堂 大辞林』ネット上のweblioで検索)。私は、「下上」の二文字を取り、「学達」とし、「学んで、上達(発達・成長)する」という意味で用いています。

 

 授業は「教授」(教え授ける)部分と「学達」(学び達する)部分で成り立つと考えています。その関係は、中国の思想にある「陰陽」の関係です。「陰」「陽」が絡み合って、一つの円という全体を構成するように、「教授」と「学達」が絡み合って、一つの授業が構成されるというイメージです。どちらが「陰」「陽」であるかは問題ではなく、この両者がバランスよく絡み合ってこそ、バランスのとれた授業が生まれるという発想です。

 

 例えば「学力の3要素」からの「授業改善」を設計する際では、生徒の「学達」に注目し、「生徒が学び通して成長する」学習内容を明確することにより、この視座から様々な視点が生まれます。具体的に生徒の学びと上達、それによる発達や成長を見据えることから始め、学力の3要素の「教授」法を考えるということです。

 

 生徒の学びの成長、すなわち、「学達」を重視するというは、何も目新しいことでありません。しかし、これを行い、授業改善を行うことを困難を伴うことがあります。何故なら、「学達」に合わせた「教授」法は、今までの方法とは異なる場合があり、それを行うために、教員側の変化・変容が求められることがあるからです。

 

 「教授」と「学達」の両方の視座を持って、教育改革での授業改善を考えると、教える者と学ぶ者が変化・変容する必要があることが分かります。