『勉強の哲学』から考えた「問学」の言葉の意義

 最近読んだ千葉雅也著『勉強の哲学:来るべきバカのために』の本から、「問学」という言葉の意義を考えました。

 

 フランスの現代思想を研究している千葉氏は、この本で、「勉強とは、自己破壊である。(p.18)」と述べています。「何のために勉強するのか」という問いには、「それは「自由になる」ためです。(p.18)」と答えています。「勉強とは、喪失することです。これまでのやり方でバカなことがきでる自分を喪失する。(p.14)」とも述べています。

 

 すなわち、「単純にバカなノリ、みんなでワイワイやれる。これが第一段階。いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが第二段階。しかし、その先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。(p.14)」最後の第三段階のバカは「新たな意味でのノリを獲得する段階(p.14)」としています。

 

 千葉氏が語る勉強とは、第一段階で存在する時にはその環境に順応し、快適な環境でいる(comfort zone)状態から、そこを離れ、別の環境に移り、それまでと異なった、変化した(transform)状態になることである、と私は理解しています。私は、教育は人が変化・変容(transformation)することであると考えているので、この本での勉強の意味は変化・変容の観点で教育と同じであると思っています

 

 その変化・変容に大きく関わるのが「言語」です。千葉氏の指摘している第一段階(環境1)から第三段階(環境2)への移行期間である第二段階で「言語」が果たす役割について、大変考えさせられました。

 

「言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えれているのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれていることなのです。(p.33)」

言語の他者性(言語は現実から分離している)のために、現実と言語の「唯一正しい」対応関係はないということなる。だから、環境によって言葉の意味が変わるのです。(p.36)」

 

 以上から、言語も持つ2つの側面を知ることが出来ます。一つは、言語が、それを使用する環境の中で、人を支配する側面。もう一つは、言語は、その他者性の特徴から、言語の使用を変えることにより、ある環境から人を開放し、別の環境に移動させる側面です。やや抽象的になりましたが、新しい言葉や概念を身につけること自体が、今までいる環境から別の環境に移動するということです。現代科学の進歩をもたらす要因になったのが、「理性」や「合理性」という言葉が根付いたからです。雷を見て、神様の怒りと考えるか、自然現象よるものだと考えるかは、それを捉える「言語」が重大な役割を担います。

 

 この本で私が理解したことは、勉強という行為は、新たな言語の習得を通して新たな(学問・研究の体系を含む)概念を身につけることにより、それまで安住してきた環境(世界観)から別の環境(世界観)へ移動し、その過程で勉強する人の変化・変容が起こるとものである、ということです

 

 「問学」は、別の環境(世界観)を示す言語であり、概念です。別の環境とは、第4次産業革命と言われるAI/IoTの環境です。第1次産業革命(蒸気)、第2次産業革命(電気)、第3次産業革命(IT)(人によっては、第3次は第4次に含める場合があります)の環境からシフトです。そのシフトの過程では、教育においても、環境に応じた新たな言語の獲得が必要になります。これまでは、あまり「問うこと」なく「学ぶこと」がなされ、それで十分でした。しかし、これからの社会でより良く「学ぶこと」を行うには、「問うこと」を強化することが求められます。それを象徴する言葉が「問学」です。「問学」という言葉や概念を身につけ、行動するとは、新たな環境(AI/IoT社会)に身を置くことを意味し、その人が変化・変容(transform)することを意味します。

 

 「勉強の哲学」を読み、言葉が持つ他者性を「問学」に当てはめると、ますます「問学」という言葉の重要性を認識しました。


(参考文献)

千葉雅也(2017)『勉強の哲学:来るべきバカのために』 文芸春秋